Shasanの『うつ共存計画』にお越しいただき、ありがとうございます。
管理人のShasan(しゃーさん)です。
このページではShasanの『うつ共存計画』の概要と活動目的、目標について紹介します。
Shasanの『うつ共存計画』について
まずは、ブログのタイトルにある『うつ共存計画』について紹介します。
Shasanの『うつ共存計画』の由来
このブログのタイトルは、管理人である私、「Shasan」が「『うつとの共存』を『課題』とし、
実践していく」という意味で名付けました。
「Shasan」という名前は、小学6年生の時に同じクラスの男子にひょんなことから
「しゃーさん」とあだ名をつけられたことが由来です。
それから中・高・大学生までずーっと「しゃーさん」と呼ばれ続けたことで
私のアイデンティティの一部となったこのあだ名をネット上の活動名にしたいと考えました。
管理者情報
名前:Shasan(しゃーさん)
年齢:28歳
うつ病歴:約3年
その他疾患:軽度境界性パーソナリティ障害(BPD)
本業:就労移行支援事業所 就労支援スタッフ
趣味:ゲーム(たまにYouTubeで配信しています)、アクリル画(独学)、手芸(独学)、音楽編集(ソフト:Logic Pro)
マイブーム:プログラミング言語の勉強(JavaScript、HTML&CSSなど)
ブログ開設の理由:「うつと一緒に生きていく」を研究し、一人でも多くの方々に生きやすさのヒントを与えたい
経歴
- 2019年4月 大学卒業後、小売企業に就職
- 2021年6月 うつ病の診断を受ける
- 同年8月 人事部と産業医の面談の末、休職する
(休職期間:約1年2ヶ月)- 2022年7月 休職中に、うつ病で休職している人の復職を支援する「リワーク」施設に通う
(約3ヶ月間)
- 2022年7月 休職中に、うつ病で休職している人の復職を支援する「リワーク」施設に通う
- 2022年10月 小売企業に一旦復職
- 2022年2月 小売企業を退職 → 就労移行支援事業所に就職
- 2024年3月 当ブログを開設
生い立ち
1996年、沖縄県那覇市に生を受けました。
那覇市に住んでいたころの記憶はあまりなく、
断片的に覚えているのは
夜中、天井の端に沿って野良猫が歩いていくのを見てビビり散らかし大号泣したこと。
興味本位でビー玉を口に入れてきれいにゴックンと飲み込みこれまたビビり散らかして大号泣。
4つ年上の兄とカタツムリの殻を集めていたら
私がつまんでいたカタツムリの殻に本体がいて、
それがニョキって出てきた瞬間にビビり散らかして大号泣。
そう、かなりのビビりでした。(今はそうでもないのですが。)
隣町にお引越し
3歳のころ、当時はまだ開発の進んでいない隣町に引っ越して
それから新卒で就職するまでその町に住んでいました。
今思えば、幼少期のビビりな性格とかなりの人見知りからか
人付き合いが苦手で、子供特有の素直な発言のひとつひとつにいちいち傷つき、
ひっそりと一人で泣くことが多かったです。
(今思えばこの頃からBPDの傾向があったのかも…)
小学生のころ:妙に目立つリーダーに
そして、小学生の間は「勉強大好き人間」で
100点が取れなかったときはこれまた1人で悔しさのあまり号泣。
この時から「完璧主義」の断片が見え隠れしていました。
そんな性格だからか、
学級委員やグループのリーダーに選ばれることが多く、
小学6年生になると児童会に立候補(という名のクラス推薦)することになり、
目立ちたくないのに学校中の児童・生徒、先生方に名前を覚えられて
知らない人に良くも悪くも噂されて生きづらかったです。
中学生のころ:リーダーは続けながらも暗黒時代へ
中学生になる前から「音楽」に興味を持ち、
小学5年生から中学1年の1ヶ月ほど吹奏楽部で「ユーフォニューム」という
これまたマイナーな楽器を担当していました。
しかし、中学1年の1ヶ月で吹奏楽部を辞めてしまいました。
理由は3年生の先輩が私に対する期待と現実が合わず、
その期待値に寄せようと
「中学生なんだから楽譜ぐらい音階書かないでも読めるようにして。ハイッ、この小節弾いて。」
と私にとって無理難題を突き付けることが多く、
他の先輩に泣きながら相談したら後日、その先輩から
「悔しくて泣くのはいいけど、怖いからって泣かないで。」
と言われたときに心の限界を感じてしまったからです。
それでも「歌う」方の音楽は大好きだった
流行りの曲、洋楽、アニメ主題歌、K-POP、
いろんなジャンルの曲を聞いては家で大熱唱。
音楽番組を観ながらずっと歌っている私に17歳年の離れた姉から
「あんたの歌じゃなくて歌手の歌聞きたいのに歌わんでくれる?」
とよくキレられてしょぼんとしていました。
中学生のころは特に「東方神起」が好きで
歌手としても、人として尊敬できるエピソードを耳にするたびに
「私のロールモデルは彼らだ!!!」
「彼らのような人間、アーティストになりたい!!!」
と思い、ちっさいガラケーの画面に流れるPVを見てダンスを勉強したり
バケツをかぶって自分の声が反響して聞こえるようにして歌の特訓などをしていました。
そんなある日、私は恐る恐る母親に言いました。
「私、アーティストになりたい。」と。
そしたら母親は大激怒。
「最近成績が落ちてるのは彼らのせいでしょ⁉もうそんな音楽聞くな!」
と言われ私はあまりの理不尽さと
尊敬するアーティストのせいにされたことに腹を立て
「それとこれとは違うし!話にならん!」
と大喧嘩。
しまいには母は
「今まで私の育て方が間違っていた。これからは厳しくする!」
と言われてしまい、その後、何を言っても私の夢を応援してくれることは一度もなかったです。
夢を反対されたころから暗黒の時代へ…
このころから私の成績はどんどん下がっていきました。
歌に熱中していたことも一つの原因でしたが
もう一つは中学の最高席次は
175名中の5位だった私は、
中学3年になると部活を引退し
受験勉強のために塾に通いだした生徒が増えたことで
どんどん席次を追い抜かれ、
気づけば64位まで落ちてしまいました。
また、私の育った家庭では
幼少期からずーっと母親に
こう言われ続けていました。
「あなたは塾に行かずに
S高校(県立の進学校)に行って、
R大学(国立大学)に行くんだよ」と。
その母親が示す私の意思が一つもない
人生のレールと夢を否定されたことで
「私は親のために生きているわけではないのに、
どうして未来までも不自由なんだろう」
と将来に希望が持てず、自暴自棄になって
何も手がつかなくなってしまいました。
受験生の夏休みも勉強もせず
朝から夕方までひたすらONEPIECEを観てたのを覚えています。
それでも生徒会に入っていたことや、
まぐれでもらった絵の賞などの内申点で
S高校に進学はできました。
高校生のころ:少しずつ光が差した時期
自分の意思で進学したわけでない高校での生活は
意外にも私に光をもたらしてくれました。
高校となれば、校区内のあちこちから生徒が集まりますが
それが何に引き寄せられたのか、
変わり者の集まりだったのです!!!
表向きは進学校でしたが
実際は個性豊かな学生が集まる高校で
お互いがお互いの個性を認め合える仲間たち
に出会えることができました。
また、高校1年生の時、
担任の先生と臨時で行った面談で言われた一言が
私の闇のような心に光を差してくれました。
「これからはあなたのお母さんの人生でもなく、お兄ちゃんの人生でもなく、あなたの人生だから。」
ごく当たり前のことですが、
私はそれを見失い、
自分の人生を自分の意思で
歩むことをいつしか諦めていました。
それを否定し、私の人生を自分の意思で
歩んでいいんだということを、
担任の先生から改めて気づかされました。
それから私は少しずつではありましたが、
勉強に対する意欲を取り戻し、
個性を見せることに抵抗がなくなっていました。
席次は最終的には400名中の
165位ぐらいまでしか上がれませんでしたが、
教室で歌う・踊るといったことをしていた
私を受け入れてくれた高校の同期生、
そして高校1年生の時の担任の先生には
今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
大学生時代:アイデンティティ増し増しのギラギラ時代
私が中学3年生のころ、
父が定年退職したこともあり
もともと裕福ではなかった家計は
ますます貧しくなり、
私が家のために高校卒業と同時に
働こうかと母親に提案したところ、
「あんたバカじゃないの⁉
今の時代、高卒で雇ってくれる会社なんてあるわけないさ!」
と一喝され、
しぶしぶ大学受験をしました。
第一志望は母の引いたレールにあったR大学。
実力もなく、帰宅部で内申点もない私は見事に落ちました。
父親からは
「ごめん。お兄ちゃんの塾代(兄は3浪し大学受験失敗の末、専門学校へ進学)でお金がないから
浪人はさせてあげられないし、大学のお金も払えないから奨学金借りてちょうだい。」
と言われ、滑り止めで受けた地元の私立大学に進学しました。
元々語学が得意だった私は英語系の学科に行き、
オールイングリッシュの授業や課題に追われながらも
英語圏の「自分の意見を物怖じせずはっきりという」文化が
その頃の私に合っていたのか
授業ではつたない英語でも
ギラギラした目でガツガツと意見を言う学生として
教授や先生から認知されていました。
その結果、成績は最終的にGPA3.28を取り
卒業論文はその年の「ベストリサーチャー賞」を獲ることができました。
新卒会社員時代:自分の中の「正しさ」を振りかざしまくり!
大学卒業後は新卒で小売系の会社に入社し、
入社1ヶ月もたたないうちに離島勤務を言い渡されました。
(面接では入社すぐの離島勤務はないと聞いていたのですが…)
1年3ヶ月で本島に戻れましたが、(それからまた実家暮らし)
その10ヶ月後に昇進したあたりから
私の心身は異常をきたしていきました。
その頃の私は、業務過多
(最高で月72時間残業)と
上司によるパワハラにより
慢性的な胃痛・吐き気、
起床時の倦怠感、のどのつっかえた感じ、
気分の落ち込みなど
心身に様々な症状が出てきたため、心療内科を受診した結果
「中等度のうつ状態」と診断されました。
診断を受けてもなお、
「私がいないと仕事場が回らないから」
といって2ヶ月ほど通院しながら仕事をしていたのですが、
状況を見かねた同僚が上司に連絡し、
人事部と産業医との面談をしました。
そこではじめてストップがかかり、
約1年2ヶ月休職することになりました。
今思えばあの頃の自分は
自分の中の「正しさ」で生きており、
もちろん、パワハラはいけないことですが
それに負けじと上司に強く反発し、
従業員のためにと許可なく自己犠牲を伴いながら
残業していた点は私の過ちでもあったのかなと思います。
休職期間:気づけば「空っぽ」の私だった。
休職前、がむしゃらに働いていたことで
自分の時間がなく、休日も身体的な疲れを
できる限りとることしか考えていなかったため、
休職したころには
好きだった音楽を聴いても、
好きだったK-POPアイドルの動画を見ても、
何をしても「楽しい」といった気分になれませんでした。
自分が何が好きで、
何が得意で、
何で笑えるのか分からなくなり、
身体だけある「空っぽ」の人間になっていました。
空っぽの自分を埋めるために
ゲーム、アクリル画、手芸、音楽編集など、
昔やってみたかったことや直感的にやってみたいこと
あらゆるものに手を出してみました。
いちばんしっくりきたのはゲーム。
きっかけは幼いころ、兄がテレビゲームをやっている横で
ジーっと観てたことを思い出しやってみたら
仕事や病気に対する不安から脱却できて
それまでどんよりと流れていた時が、あっという間に過ぎる感覚に
少しの喜びを感じたのを今でも覚えています。
リワークとの出会い
休職期間が残り5ヶ月となったころ、
うつ病に関する本の中に
「リワークプログラム」という文字を見つけました。
リワークとは簡単に言うと
「うつ病などの精神疾患を抱える方々が復職や再就職を目指す取り組み」のことで
復職に対して漠然とした不安を抱えていた私は
気が付けば利用申請フォームを送っていました。
そこで過ごした3ヶ月で
私は主に柔軟な思考を導くトレーニングをしたことで
少しばかり生きやすくなりました。
一旦復職からの転職
前職の別部署に4ヶ月間復職しましたが、
会社の休職前と変わらない対応に
「またつらい時期に逆戻りしそうだ」
という予感に不安を感じたのと、
リワークを経験してできた
「私も自分と同じように苦しんでいる人たちの力になりたい!」
という夢を理由に退職しました。
そして現在の職場である、就労移行支援事業所の就労支援スタッフになりました。
やっと分かった!生きづらさの原因の1つ=「境界性パーソナリティ障害」
2024年11月、心療内科の主治医の提案で受けた
3つの心理検査の結果
軽度の「境界性パーソナリティ障害(BPD)」と診断されました。
言われてみれば、
人間関係において一人になるのは怖いし、
人に見捨てられるのはもっと怖いし、
生きてることへの空虚感なんて
デフォルトだと思ってたので
調べれば調べるほど、どんどん
「あ、それ私じゃん。」ってなりました。
これが私が抱えていた
生きづらさの原因の一つであることは
ほぼ間違いなく、
それにうつ病を併発したもんだから
さらに人生がハードモードになっていたことに
ようやく気づくことができました。
これからの「生きやすさ」のヒント探しに
ようやく光が見え始めた瞬間でした。
ブログの活動目的
そんな私が2021年6月に「うつ病」と診断を受けてから現在に至るまでの紆余曲折した経験をもとに
読者の皆様と一緒に「うつと共存していく」を考える場を作りたいと思い、ブログ開設に至りました。
なぜ「治癒」ではなく「共存」なのかと疑問に思った方も多いでしょう。
私自身、一時は「うつを治す」を目標に生きていた時期もありました。
しかし、先の見えない治療と絶え間なくやってくる負の感情の波に何度も心を押しつぶされ、
「一生私はこのまま治らないんじゃないか」
と絶望する日々の中でふと思いついたのが
「治るのに時間がかかるならうつと一緒に生きていこうではないか!」
という生き方です!
うつもまるっと含めて私にしちゃった方が生きやすいのでは!?と考えを変えてから、
私の場合はすごく生きやすくなりました。
ただやっぱり私も人間なので、その決意を忘れちゃいそうになることもあります。
そんな時にこのブログと向き合い、軌道修正して行けたらいいなと考えています。
また、私と同じようにうつに苦しみながら生きている方々とこのブログを通して交流し
生きやすさのヒントを皆さんと一緒に模索していけたらいいなと思っております。
目標
私一人だけではなく、読者の皆様と一緒に
「うつと一緒に生きていく」を研究し、
一人でも多くの方々に生きやすさのヒントを与えられる
そんなブログにしていきたいと思います!
今後:自称へっぽこクリエイターとしてやりたいこと
- ブログ:うつ病や精神疾患の方々をサポート
- X(旧Twitter):ブログ更新案内とちょっとしたつぶやきでたくさんの人とつながる
- Instagram:ブログ更新案内、アクリル画などの作品を紹介する
- YouTube:ゲーム配信やうつ病などで眠れない人のための雑談配信を行う
終わりに
長文にもかかわらず、ここまで読んでくださいまして
ありがとうございます。
今後もできる限り活動の幅を広げていきたいと考えておりますので、
応援のほどよろしくお願いいたします。